『DIAMOND online』にて記事連載中!!

まあ、要するに愚痴みたいなものですが💦

「誰」がなくても分かる言語

もう随分前のことになりますが、某外資系企業から社内ミーティングの通訳依頼がありました。その会社には様々な国籍の方が働いていて共通言語は英語だけれど、英語コミュニケーションが苦手な日本人社員の方がミーティングに参加されるので通訳をお願いしますということでした。

その会社のオフィスに到着して、ミーティング開始前に担当者と打ち合わせをしていた時に、ミーティングの参加者について、ちょっとした混乱が起きました。

打ち合わせの会話の再現(私の記憶による)
担当者:「営業から3人参加されます
私:「あの、今日は社内のミーティングですよね?」
担当者:「はい、今日は社内のミーティングです。」
私:「営業から3人『参加される』んですか?」
担当者:「そうです、営業から3人参加されます
私:「えっと、参加される方は全員、御社の社員の方ですよね?💦」
担当者:「だから、社内ミーティングだと先ほどから言ってるじゃないですか💢」

さて、この会話。なぜ噛み合わないのでしょうか???

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自社の人について語る時には、通常は尊敬語は使わないですよね・・・。(と私は思っている)。「営業から3人参加」と言いたい場合、自社の人間であれば、丁寧語(営業から3人参加します)とか謙譲語(営業から3人参加させて頂きます)とかで言います。

担当者から、「3人参加されます」と尊敬語で言われた途端に、私は「他社の人が参加するんだ」と思ってしまった訳です。

日本語の使い方としては、自社の人には尊敬語は使わないのが正解だと思うのですが(たぶん・・・)、それを間違えてしまうと「誰が」ということが分からなくなってしまう・・・。この噛み合わない会話を通して日本語というのは尊敬語や謙譲語を使い分けることで、「誰のことを話しているのか」が分かるようになっている言語なんだと改めて思った、という話です。

英語の”eat”は”eat”でしかない

例えば、会話の中で「昨日は夕食に何を召し上がりましたか?」と誰かが聞いたとします。この文章の中には、「誰が」を示す言葉は入っていません。それでも、「召し上がる」という尊敬語を使っていることで、話し手は目上の人に対して話していることがわかります。

これが、「昨日は夕食にパスタを頂きました」だったら、「頂きました」という謙譲語を使っていることから、話している本人が自分のことについて述べていることがわかります。
こんな風に、「食べた」という言葉を、「召し上がる」(尊敬語)とか「頂く」(謙譲語)と表現を使い分けることで、「誰が」ということを示すのが日本語なんですよね。

これが英語だと、「昨日は夕食に何を召し上がりましたか?」(What did you eat for dinner last night?)でも、「昨日は夕食にパスタを頂きました」(I ate pasta for dinner last night.)でも、「食べる」という言葉はeat(過去形ではate)です。

日本語とは違い、動詞が尊敬語になったり謙譲語になったりして「誰が」を示すことはありません。英語は文法上、主語が必要なつくりになっているのは、「誰」ということを言葉で示さないと分からないからかもしれません。

ハイコンテクスト文化は訳しにくい

日本は、ハイコンテクスト文化(全てを言語化しなくても共有していることが多いので暗黙の了解でお互いに理解できる)といわれます。「阿吽の呼吸」や「一を聞いて十を知る」ことが美徳とされるなど、コミュニケーションにおいて理解することの責任が聞き手に委ねられている部分が大きいように思います。

そのせいか、通訳していると英語に比べて日本語は「誰が」や「何を」ということを言語化しないまま会話が進んでいくことが多いことに気づきます。

これも随分前の出来事ですが、通訳していた会議で、その会社の社長さんが、社内の組織について話している時に、「あっちのあれを持ってきて、ちょこちょこってすればいい」と発言し、「部外者」の私には全く意味が理解できなかったことがありました。「あっちのあれを持ってきて、ちょこちょこ」と言われても、何処にある何を持ってきて、、、、「ちょこちょこ」って何をするの????と、あまりに大胆な意味不明さ(?)に、思わず笑い出してしまったことがあります。

社長さんも「そりゃ、分からないよね」と一緒に笑ってくださったので、その場は和やかに納まりましたが、その時の周りの反応は私にとっての大胆に意味不明な発言は極めて「普通」なものであり、日常的に会話の中にはこれくらい(部外者にしてみたら)理解不可能な表現が当たり前なのだという雰囲気も感じました。

「誰」の責任で「何」を決めたの?

「あっちのあれを持ってきて、ちょこちょこする」というほど大胆ではなくても、ビジネスの場で通訳していると、「主語」も「目的語」もない日本語の表現に遭遇することが時々あります。

例えば、「決まっちゃったんですよ」という発言(ビジネスの場でもこういう言い方は案外頻繁に出てきます)。ここには、「誰が」「何を」決めたのかという情報が言語としては入っていません。文脈で「誰が」や「何を」が分かることも勿論ありますが、正直なところ分からないことも多く、通訳していると推測で訳すわけにもいかないので聞き直して確認するようなこともあります。(そして、確認すると嫌な顔をされることも、あります💦)


あくまで私の印象ですが、欧米文化では「責任のありか」がとても重要です。ビジネスの場で日本語だと、「決まっちゃったんですよ」という表現で何となく話が進んでいくことも多いのですが、この表現には「誰が」「何を決めたのか」・・・つまり何に対して決定した責任を誰が負っているのかということが明確にされていません。

これを、そのまま英語にすると不自然に聞こえるというか・・・。
第一に、主語も目的語もない文章は訳しにくいし、無理やり「決まっちゃった」というのを「It was decided」などと受け身で訳すと、とても不自然で、場合によっては責任逃れをしているように受け取られかねません。

英語圏の人に「リーダーの仕事って何?」と質問すると殆どの場合、「ディシジョンメーキング(意思決定)」と即答されます。会社の社長であれ、チームリーダーであれ、「トップ」といわれるポジョションにある人の仕事は、決めることと、決めたことに対する責任を負うことであると広く認識されていることを感じます。


そんな背景もあり(そして言語の文法的な違いもあり)、英語での会話は「誰が」「何を」ということが言葉で明確に示されるのであろうと思います。

そして通訳という、日本語と英語の間に立つ身としては、日本語で主語とか目的語がない表現に苦労することも多いんですよね(はい、愚痴です💦)

愚痴になってしまって申し訳ないですが、日本語と英語の違いということで、少しでも参考にして頂けたら嬉しいです。

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